音と記憶の結びつき。


もう2年以上もの間、月に2回以上は顔を合わせ、かつ同じ釜の飯を本当に何度も食ったような人から、早朝にメールをもらった。午後会う前に、電話で話をしたいなんていうメール。ただ事でない雰囲気を感じ取って連絡をすると、もう20年以上も継続をしてきて、かつ彼女の生活のすべてだった踊りの会を、ある別のことを貫くためにやめるというのだ。

この人は、大勢の人の間にいるときは中庸の姿勢でしなやかにふるまうのに、こと自分のことになるとまっすぐな人だ。あいまいな態度はとれない。命を削るようなその決断は、もう留めても無駄だというのがわかっていたので、私はなすすべがなくて、動揺を隠しながらその決断を尊重する旨を伝えたのであった。

さて。困ったのは今日の午後だ。
踊りの会に赴き、篠笛を吹いてみたが、吹くメロディすべてが彼女との思い出に結びついてしまい、どうにも涙が止まらない。いっそ泣いてしまえば気が楽だと思うのだが、(実際に、彼女の決断をきいて涙していた人もいた)、どうも人前で涙を見せる、というようなことができない性質なので、ぐっとこらえる。が、あいにく笛は、鼻だの息だのをきちんとコントロールできないと、吹き続けることができない楽器なのだ。結果、グズグズな演奏を繰り返すことになり、疲労倍増と相成った。涙を溜めこむのは、きっと健康によくないんだと思うがどうなんだろ。

J-POPの歌詞で涙する、というようなことは、よくある。歌詞に自分の状況や姿が重なるからだ。インストゥルメンタルでも、映画のサウンドトラックで泣けることはある。ただし、私の場合は、その音楽と同時に流れている映画の感動的なシーンが目の前にあってはじめて涙が呼び起こされるから、サントラだけでは涙は出ない。でも、今日わかったのは、「歌詞も特定の映像もない音楽でも、その音が記憶や思い出に強烈に結びついていれば、やはり泣けるのだ」ということ。だって、今日涙を溜めながら吹いていた音楽は、どれも泣けるようなものじゃない、「ハレ」の音楽ばかりだったのだから。