(原題"Na Putu"/Jasmila Zbanic/ボスニア・ヘルツェゴビナ、オーストリア、ドイツ、クロアチア合作映画)
かつては、ムスリム、正教徒、カトリック教徒、ユダヤ教徒…という具合に異なる民族や宗教が共存していたサラエボだったが、ボスニア紛争を酒井に多様性は失われた。あれから15年を経た都市における、あるカップルの物語。
紛争で両親を失った客室乗務員ルナと、戦場のトラウマから逃れきれていないアマルのカップル。アマルがひょんなことで厳格なイスラームにのめり込んでいくことによるルナの葛藤と二人の決断を描いた映画。
…とまあ文章で書けばこんな感じだが、ストーリー全体を見渡すと、なかなか複雑な話である。紛争後に国内で起きているあらゆる問題点が、104分に詰め込まれている感じ。サラエボの抱える事情がわかっていないと、わかりにくいかもしれない。
印象に残ったシーンは、いくつかある。ルナがかつて暮らしていた家に行くシーン。今その家に暮らす少女は、なぜルナが家をみて泣いている理由がわからない。本当は、戦争で異宗教者に家を追われた、ということなのだが、もはや戦争のことを知らない世代が育ってきている、ということがわかるシーンだ。
あとは、両親が殺されたことで、ある意味気の毒がられ「ちやほやされた」ルナのことを、ルナの親友がなじるシーン。戦争で肉親が殺されなかったことが悔しく、親が戦争で死ねば自分も人気が出たはず…という彼女の独白は、非常に人間らしいと思った。このシーンは、紛争経験がないと描けないだろう。
アマルは、トラウマからアルコール依存となり、そこから立ちあがろうともがくうちに、救いを求めて「厳格な」イスラーム教徒となり、その信仰は対外的に影響を及ぼすようになる。これがルナや家族、友人たちとの関係に波風を立てるのだ。でも、これは、別にサラエボに限ったことではないだろう。サラエボの異民族共存体制というのは、人々の間に改宗がなかったから、寛容でいられたんだと思う。でも、すでに共に暮らしている人が、別の思想にのめりこんで、もはや自分の知るその人ではなくなった…というのは、宗教の寛容性の問題とはまた別なのではないかな、などと思ったのだけれども、どうだろう。
監督によっては、この映画の中に盛り込まれた数々の問題のうちの一つを切り取っても、映画にしてしまうのではないか。それくらい、盛りだくさんの映画だった、という感想を持った。日本語のサブタイトルは「希望の街角」となっているが、原題からも想像できるように、かの国の苦しみはまだまだ深く、「道半ば」というところなのだろう。